旅先に居ります→日本に居ります

海外旅行中、心配して下さる方々への生存確認日記です

でも最終的な印象は良い台南

台南を出る日の午前中、駆け足で国立台湾文学館へ。
ここは凄いです。
無料なのでちょろっとしたものがあるだけだろうとタカをくくっておりましたが、さすが国立。
ほんとに凄いです。
博物館好きにはたまらない、素晴らしい展示品と展示方法です。
ここへはまた行きたいです。

そして前日は避難訓練で閉まっていた林百貨へ。夜のライトアップされた外観を見たかったのですがそれは無理でした。昼間は昼間で普通に百貨店として良いのですが。
しかしこれまた、博物館のように往時を偲ぶ要素がありまして、日本語でも解説板があるので、買い物以外でもゆっくりしたいです。

が、もう次は関子嶺温泉へ行くのであまりゆっくりはできません。

台南、国立台湾文学館の為にもう一度来たい街になりました!

台南とは相性が悪いらしい

二泊しましたがあまり観光らしい観光はできずじまいでした。

食べ物が美味しいということでかなり期待していたのですが、食べたものは全て甘ったるい。私が関西人だからか、ただの好みの問題か、全て甘くて首をかしげるばかりでした。

台南に限らず飲食店は夜八時には閉まってしまいます。あとは夜市へでも行けということでしょう。しかし私は夜市では落ち着いて食べることが出来ないので食べた気にならないという問題があります。
だったらそれまでに夕飯を済ませなさいよってことなんですが、食べる気になるのがいつも閉店前くらいで、どのお店に行こうかしらなんてうろうろしているうちに閉まってしまうんですね。私が悪いのよ。
で、台南の夜市には行ってないので食べられなかったということなのです。
二日目の夜は、遅くまで開いているお店を見つけて、しかも美味しかったので助かりました。大好きな水餃子。

あと、行こうと思っていたお店二店舗が何故かお休みでした。残念。

それから、これまた私が悪いのですが、店舗の空いている時間をちゃんと調べないで行って食べられなかったものもあります。
朝食として食べられる牛肉湯というものがあるらしく、調理法を聞くとミディアムレアの薄切り牛です。しゃぶしゃぶみたいな感じ?聞くからに美味しそうなのでこれは是非試してみたかったのですが、叶いませんでした。

歩き方に載っているお店に、たまたまたどり着いたのですが夕方で閉まっていました。実際には開店前だったのですが、朝食だと聞いていた私は勝手に今は閉店後なんだと勘違いして、明日行こうと決意します。歩き方を読めば18時開店と書いてあるのですが、読まなかったの。テヘ。で、次の日の昼には台南を出るのでもう食べられなかったのです、残念。これは砂糖入れる要素ないから美味しそうな気がするのですが。

それから食べ物以外でも、
オランダ人が最初に築いた城塞というのに行こうとして自転車に乗っていて、違う島に行ってしまって日が暮れたので諦めたり。
その自転車の鍵を無くしたり。
この鍵はチェックアウトまでに見つかったので良かったんですが。
あと林百貨も避難訓練で閉まっていました。
踏んだり蹴ったり。

台南とは相性が良くないのかなと思いました。とほほ。

しかし、観光スポット以外を見るのもとても好きなので、ある意味満足です。
自転車楽しかったです。


高雄に着いた (3)

美食大街はフードスタンドは沢山並んでいるのですが、私は座って食べたかったのでウロウロ歩き続けました。他の通りにも行ったのですが、何故かスポーツウエアのお店が多く、台東では簡単に見つかった食堂たちが無いのです。
夜九時近いので閉店してしまったのかも知れません。
ようやく見つけたお店は、インスタントの麺に好きな具を選んで入れるお店でした。
こんな感じ。
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お姉さんが可愛い。
いくらですかと聞くと、具はそれぞれ異なる値段だとのこと。そうだろうね。一食だいたい幾らかを知りたのだけどね。中国語頑張りましょう。
こんな感じで網戸を開けて、自分で手前のボウルに入れます。
ちっさいコーンとか三度豆とか、勝手に増やされた。
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で、三種類あるインスタント麺から一つ選ぶとお姉さんが茹で始め、それを待ちながら左手にトングで食材を持ち、右手にハサミを持って、器用に食材を切っていきます。
それを何故か、大きめのカップにゴミ袋のようにセットされたポリ袋に入れているのです。
…うん?
「冷たいのと熱いのとどちらにします?冷たい方が美味しいかな ❤︎ 」
と言うのでじゃあ冷たい方で、と言ってみました。
歯列矯正も可愛い。
麺が茹で上がると、袋に麺を入れて和えているようです。向こう向いてるから見えないけど。
「辛いの要りますか ❤︎ 」
要りません。
「はい ❤︎」
辛くないソースを袋に入れて振り返って
「ちょっとだけ辛くてもいいですか ❤︎」
あ、はい…。
そう、本当は辛いの好きなんです、私。ただ、本場の辛さにされると良くないと思って、要らないって言ったのです。
見てるとお姉さん、おいおい、今けっこうな量入れたよね?!
袋に空気を含ませて空間を保ちつつ口をねじって閉じて、食材を和える。色んな角度から見る。クルクルと口を開けて、また辛いソース入れとるやんけー!投下する位置を考えて狙って入れてるようです。
で、なんとその袋のまま供されました。
「リャンパイ ❤︎」
え?袋のままで200元?このまま食べるの?
もう一度聞く。多少銭?
「リャンパイ ❤︎」
まじか。
お姉さんの笑顔代込みなの?
でも、袋に対して固まっているのを察してか、紙の箱を見せてくれて、
「これに入れますか ❤︎」
と聞いてくれた。
いや、いい。このまま食べる。
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正直、麺がダメだったな。
他のは美味しかったです。
まあほとんど素材だけなんだけど。
入れたのはブロッコリー、三度豆、キノコ二種類、小さなコーン、糸こんにゃく、もち米となんか黒いのを固めて四角に切ったもの。
キノコ、糸こんにゃく、もち米の食べ物は下味付けたりしてるけど、それ以外は野菜そのものの美味しさだと思います。
そしてちょっと辛かったね、やはり。

それにしても200元って!
後から来たお客さんも130元払ってたから、そんなもんなのかも。
台東で100元未満で食事してたのは何だったんだろう。しかも外れなく美味しかった。

高雄、物価高いのかな。明日から心配だ。

高雄に着いた (2)

宿に荷物を置いて、夕飯を食べに出かけました。
美食大街とあるのを見つけて入ってみると、フードスタンドと洋服屋さんが並ぶ通りでした。

台湾に来る前から、赤いシンプルなワンピースが欲しいと思っていて、中華圏だから簡単に手に入るだろうと思っていたのですがなかなか無いんですね。
洋服屋さんが沢山あるので、ここでも探そうと一つのお店に入り、思うものが無いので一周して出ようとした時に、40代の萬田久子みたいな人に「ナンヤラカンヤラ是不是?」と聞かれました。
何を聞かれたのかは不明ですが、店員さんと間違われたようです。

昔はアジアへ旅行すると、秒殺で日本人だとばれていたのですが、今回の台湾旅行では現地人としか思われません。
私がグローバルになったのか、現地人が日本人っぽくなったのか。
謎です。

高雄に着いた (1)

台東から高雄に電車で移動しました。
途中爆睡していて、一瞬見た外の景色が豊かな緑であったことしか覚えていません。
台東のバスターミナルから台東火車站まで24元、30分程でした。この間も寝てました。

高雄の駅でどの出口から出れば良いのか、案内板を見ていたら、青年が英語で話しかけてくれて、メトロの乗り場を教えてくれたのみならず、切符(トークン)を買ってくれたうえに私と同じ駅で降りてホステルまで連れて行ってくれました!
昨年オーストラリアにワーキングホリデービザで滞在しており、バックパッカーだったから色々助けてもらったんだそうです。日本でも助けてもらったと言ってました。

移動中話した内容の一部。
メトロのアナウンスの話から台湾での言葉の話になりました。
マンダリン、台湾語、客家語が多く話されているとのこと。
台湾語は若い世代では聞き取りは出来ても流暢に話せない人が多いと言うので理由を聞くと、国民党(KMT)の方針だそうです。
彼が言うには、日本が台湾に来たときは、役人たちは現地の人たちと話す為に台湾語を学んだそうです。
一方、日本の敗戦後、大陸での共産党との戦いに負けて台湾にやって来た蒋介石の国民党は、現地の人たちにマンダリンを学ばせ、自分たちは台湾語を学ぼうとしなかったそうです。
それが今も続いており、台湾語は教育されないのだそうです。

KMTは日本とは全く違うんだと言ってました。
この辺りについては何冊か本を読んだのですが、日本語で読む本は日本に優しいような気がしてしまうのです。もっと読みたいし、勉強したい項目です。

さて、ホステルに着いて、メトロのトークン代を受け取らない彼に果物(しかも台東出る時に宿の人がくれたもの。汗)を押し付けてお礼としました。

一緒にいたのはたったの20分程度だと思います。しかしこの間にもKMT批判になるという現実をどう捉えたら良いのかしら。

軍国少年

僕はね、昭和九年生まれ、たった四年の国民学校教育。
僕の発音わかる?

真珠湾の後ね、日本にアメリカ攻めてきた。沖縄がやられた。でも台湾はまだ大丈夫。朝鮮も大陸も、東南アジアも日本は良く守っていた。
あの二つの原子弾がなければ日本はまだ二、三年は闘ったよ。
日本はとても勇猛だよ。天皇陛下は原子弾の後もう辞めると言ったけど、軍部はやめたくなかったんだ。


台湾の米どころ、池上へ行きました。
駅前のお米屋さん兼貸し自転車屋さんのお父さんは日本語の教育を受けたとのことで、問題なく会話が出来ました。

すぐに戦争の話になりました。
上記の内容は当時の軍国少年に共通するものだと思います。
でも泣けてきちゃった。

四国に行きたいとおっしゃってました。瀬戸大橋が見たいそうです。
是非来て欲しいと思います。

そして。
言葉が出来ないということは、こういう話を聞く機会をみすみす失っているということです。
やはりかなり損してる。